『限りなき主の栄光を求めて』出版記念講演|尾崎富雄
オズワルド・チェンバーズの生涯
限りなき主の栄光を求めて Oswald Chambers
オズワルド・チェンバーズ著 尾崎富雄[訳]
恵みに満ちた語りかけに応えて、ただ主を求め、主とともに歩むことをすすめる。聖書学院で語られた珠玉のメッセージ等を、夫人が366日の黙想に編集し、多くの人々の信仰を養ってきた古典的名著(いのちのことば社)の出版記念講演を収録しました。
『限りなき主の栄光を求めて』出版記念(2021年7月18日 NCA)
オズワルド・チェンバーズの生涯
- 生い立ちと時代背景
- シャーロック・ホームズの時代
- スコットランドのアバディーン
- 同時代のクリスチャン: C・H・スポルジョン、F・B・マイヤー、A・ホワイト、D・L・ムーディー、キャンベル・モルガン
- ドイツの近代主義(自由主義)が隆盛を極める前の一般的に、まだ聖書が重んじられていた時代
- バプテスト派の牧師夫妻(クラレンス、ハンナ)の九人きょうだいの一人として15 歳のとき、自分の生涯を主にささげる
- 貧しい家庭、旺盛な向学心
- 絵画、音楽の才能顕著
- 父、「教育は 15 歳まで」
- 王立芸術院(Royal Academy of Art)からエジンバラ大学へ進む
- 学費尽き、丘の上で進路を求めて祈る
- グラスゴーのダヌーン・カレッジへ
- ダンカン・マグレガーとの出会い生きた、本物の信仰を学ぶ
- F・B・マイヤー博士の訪問
「地上の地獄」 芸術への思い、クリッシー嬢との交際
「聖霊のバプテスマ」 (聖霊による占有)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
- 「宣教」への召し
- ビディー夫人との結婚、一人娘キャスリーン授かる
- ペンテコステ祈祷連盟 (リチャード・リーダー・ハリス) グレイ法曹院勅選弁護士
- アメリカでの働き(God’s Bible School)4年間
- 中田重治の勧めで日本に。
- ハリスの突然の死(1909)とチェンバーズの重責
- ロンドンの一角にバイブル・トレーニング・カレッジ創設 (わずか4年で閉鎖)
- 終焉の地、カイロ
- 歓迎されなかった Y.M.C.A の働き
- 3~4人の祈り会から始まった大きな働き
- 生きて帰ることのない若者たちへ
- 「裂かれたパン、注がれたぶどう酒となって」
- 召されてなお
- 32 冊の著書刊行
- 古びない内容
へブル人への手紙 13:7 「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(第三版) |
- 「白い葬儀」
自分に死ぬことによって、真に生かされる
- 「白い葬儀」
- 「一体化」 (キリストと一つになること)
「聖霊のバプテスマ」 奇跡的な経験のことではなく、聖霊に占有されること
- 「一体化」 (キリストと一つになること)
- 「非日常の山から、日常の平地へ」
至福の経験ではなく、平凡な日常において神を経験する
「キリストのように弟子の足を洗うには、全能の神の力が必要である」
- 「非日常の山から、日常の平地へ」
- 「将来ではなく今」
「結果ではなく、今、神を見ているか、という途中経過こそが大切。」
- 「将来ではなく今」
- 「神に代われる人はいない」
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」(イザヤ 6:1)
- 「神に代われる人はいない」
7月28日 従った後に待っているもの
「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせ(た)」(マルコ6章45節) |
- ・・・私に対する神のみこころを、私はどのように思い描いているだろうか。神のみこころとは、今この瞬間、私が神とその御力に頼ることである。たとえ私が、人生の荒波の真っただ中にあっても、冷静沈着のままでいることができるなら、それこそが神のみこころである。神は、何か特別なゴールに向かって働いておられるわけではない。神のご目的は途中経過にある。すなわち、岸が見えなくても、また成功の見込みもなく、目標がどこにあるかわからなくても、波の上を歩いておられるイエスが見えるから大丈夫なのだ、という確信を私が持つことである。神に栄光をもたらすのは、結果ではなく、途中経過なのである。
神が私たちを訓練されるのは、やがて来るときのためではなく、今の時のためである。神のみこころは、将来起こる何かのためにではなく、今のこの瞬間のために働く。神に従ったらどうなるか、ということは私たちにはどうでもいいことである。後のことを考えていたら、私たちは誤りを犯す。人は訓練や備えと呼ぶが、神はそれを最終目的と見なしておられるからである。
神が願っておられるのは、混沌とした私の人生の荒波の上を、主なら歩くことができると今この瞬間、私が理解することである。私たちが将来のことを到達目標とすると、現在進行中のことに注意が十分いかなくなってしまう。しかし、従順であることが目標そのものであることに気づくと、私たちに訪れる一瞬一瞬がどれほど尊いものかが分かるのである。