2015年「今月の聖書のことば」記録
8月の聖書のことば
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (コリント人への手紙第二 5章17節)
1998年の長野オリンピックで来日し、聖火ランナーとして走ったアメリカ人がいた。ルイス・ザンペリーニ氏(81)である。1936年のベルリンオリンピックにアメリカ代表として出場、五千メートル走に出場し、記録は8位ながらも、ラストスパートで何人も追い抜き、米国人を感動させた。◆その後、太平洋戦争勃発にともない、アメリカ陸軍航空隊に入隊した。ところが、彼の乗った飛行機が故障のため太平洋上に不時着。47日間漂流した末、日本海軍の捕虜となり、直江津の収容所に入れられた。 そこで待っていたのは「バード」と呼ばれて捕虜から恐れられていた日本人軍曹からの執拗な虐待であった。◆長い戦争が終わり、収容所生活が終わっても、日本兵、特に「バード」への憎しみは消えることがなかった。悪夢にうなされ、酒浸りの日々が続き、結婚生活も崩壊寸前だった。そんな時、妻からの願いでビリー・グラハムの野外伝道集会に参加する。グラハムが語る聖書のことばはまさに自分に語りかける神のことばであった。「あなたの敵を愛せよ」…。◆トラウマを乗り越えるためにはもう一度日本に行かなければならない…。1950年、巣鴨プリズンを訪ねる。しかしA級戦犯として全国に指名手配された「バード」は訴追を逃れるため逃亡していた。ルイスは 拍子抜けするものの、気がついてみるとあれほどの憎しみが消えていた。ルイスにとっての長い戦争がやっと終わったのである。◆占領統治が終わり、「バード」は再び姿を表した。長野五輪の前年、米CBSのインタビューに応じたものの、ルイスとの面会は拒み続け、 死ぬまで自らの非を認めることはなかった。一方、ルイスは、かつて捕虜収容所のあった直江津を走り、沿道から盛んな声援を受け、日米友好の架け橋となった。◆どちらが人生の勝利者となったかは言うまでもないだろう。
7月の聖書のことば
彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
(ローマ人への手紙3章15~17節)
昭和20年…。3月10日に日付が変わって間もなく、真夜中の東京の上空は焼夷弾30万発を満載する300機以上のB29の大編隊に埋め尽くされた。周到に狙いを定めて落下された焼夷弾により火の壁に挟まれた住民が逃げ場を失って密集したところにさらに焼夷弾が落とされ、死者は10万人を超えた。5ヶ月後の広島、長崎原爆投下に次ぐ大きな犠牲である。◆しかし驚かされるのは、この作戦の指揮をとったカーティス・ルメイ少将が、戦後、日本政府から勲一等旭日章を授与されていることだ。航空自衛隊の育成に功績があったことがその理由とされているが、不可解極まりない。昨日まで「鬼畜米英」と教えていた政府が、今度はアメリカを師と仰ぐようなこの変り身の早さはどういうことか。◆そして今では、一内閣が閣議で憲法解釈を変え、同盟国アメリカが敵国と戦う際には「後方支援」に回るということは合憲であるとされ、近隣諸国との武力衝突も辞さない構えだ。◆ 名機零戦を作り戦艦大和を建造する優秀な技術力があっても、日本は自ら始めた戦争を終結するすべさえ知らず、いたずらに戦争を長引かせ犠牲者を増やすばかりであった。310万人という尊い人命を失い、その傷は今も深く残ったままであるのに、また同じ様な過ちが繰り返されようとしている。◆神に立ち返って、聖書のみことばに立ち、「あなたの敵を愛せよ」という主イエスのご命令に従うのでない限り、真の平和への道は遠い。
6月の聖書のことば
「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」(イザヤ書1章18節)◆ここで「緋」と訳されているヘブル語は「二度染めをした緋色」のことだそうである。また「紅」というヘブル語は「トーラー」ということばで、血の色を表す。◆白を赤に染めるのは決して難しいことではない。しかし、一旦真紅に染まったものを真っ白にする、というのは不可能であると言ってよい。◆およそ赤ほど周囲の風景の中で目立つ色はない。しかし、ここでは美しい赤のことではなく、罪の色を表している。◆この「トーラー」という語はキリストの十字架を予表した詩篇22篇でも使われている。「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです」(6節)。ここで「虫けら」と訳されているのがそれである。一体どういうことか。◆実は、「トーラー」とはもともとパレスチナの樫の木に生息する虫のことで、あたかも植物の一部であるかのように装っている。やがてそこから赤い色をした何千という卵が産みつけられる。幼虫が大きくなると母親は死に、真っ赤な物質を分泌し、自分も幼虫も、そして木も赤に染まる。この赤が中東において幅広く高価な染料として用いられてきたのである。◆3日経つと、母親の死骸は赤の色を失って徐々に白い殻のようになり、それが地面に落ちると林の中はまるで新雪が降り積もったようになるという。◆神は、実にご自身の御子が十字架上で虫けら同然に扱われるのをお許しになり、私たちの真っ赤な罪がキリストの純白の義によって覆い隠されるようにしてくださったのである。何という驚くべき神の恵みであろうか。
5月の聖書のことば
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネ第一の手紙3章16節 口語訳)
南海の楽園と言われるパラオ。ここで71年前、日米が総力戦を繰り広げ、日本軍がほぼ全滅したことを多くの日本人は知らない。◆10年前に同じく太平洋戦争の激戦地サイパンを訪問された天皇皇后両陛下は、今年、自ら強く希望され、去る4月8日、9日の両日、日本人兵士慰霊のため、この島を訪問された。◆日米の攻防の舞台はペリリュー島であった。現地の人々は、大人も子供もともに戦う決心をしていたが、日本軍は激しい言葉でこれを押しとどめ、住民全員をパラオ本島に退避させた。3日で攻略、というアメリカのもくろみに反し、戦いは73日に及び、ついに日本軍は壊滅した。◆ここに驚くべき数字がある。日本軍戦死者 10,695名、捕虜202名。米軍戦死者 2,336名、戦傷者 8,450名、パラオ住民 死者 0名、負傷者 0名!◆戦後、ペリリュー島に戻った住民はおびただしい日本兵の遺体を見て嗚咽した。そもそも稲作、ナス、キュウリ、サトウキビ、パイナップルなどを持ち込み、缶詰めやビールなどの工場をつくって雇用を創出し、道路を舗装し橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどのインフラ整備を積極的に行い、住民全てに対し、数種の疾病に対する予防接種を受けさせたのは日本人だったのである。◆現在、パラオ共和国は、世界に類のない親日国の一つであり、その国旗や切手は、日本への憧憬すら感じられるものとなっている。◆住民に非情なほどの厳しいことばで退避命令を出した中川州男大佐の姿はイエス・キリストを彷彿とさせるものがある。キリストが弟子たちを逃し、ためらいもなくあのむごたらしい十字架刑をお受けになったのは、私たちもまた永遠の滅びに行かずにすむようにするためであったのである。(長野キリスト集会 尾崎)
4月の聖書のことば
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1章7節)◆慶応義塾大学の創設者、福澤諭吉はキリスト教解禁前の1871年(明治4年)10月14日から11月にかけて、毎日ひとつの教えを書いて、一太郎と捨次郎の兄弟に与えている。それが「ひゞのをしへ」である。自身はキリスト者ではなかった福沢が、自分の子供には聖書の教えをかみくだいて教えているのに驚かされる。◆ほとんどが平仮名の文章であるが、読みやすいように漢字を交えて一部を紹介する。◆世の中に父母ほどよきものはなし。父母より親切なるものはなし。父母の長く生きて丈夫なるは、子供の願うところなれども、今日は生きて、明日は死ぬるもわからず。父母の生死には、ゴッドの心にあり。ゴッドは父母
をこしらえ、ゴッドは父母を生かし、また父母を死なせることもあるべし。天地万物なにもかも、ゴッドの造らざるものなし。子供の時より、ゴッドのありがたきを知り、ゴッドの心に従うべきものなり。◆天道様を恐れ、これを敬い、その心に従うべし。ただし、ここに言う天道様とは日輪(=太陽)のことにはあらず、西洋の言葉にて、ゴッドと言い、日本の言葉に翻訳すれば造物主というものなり。◆公にはまだキリスト教徒が「キリシタン」「耶蘇」と呼ばれて忌み嫌われていた時代に、オランダ語、英語の知識を駆使し、欧米事情に精通した福沢ならではの慧眼と、子どもには本当のことを伝えたい、という思いが垣間見えて興味ふかい。◆世は「平成」となって久しいが、ことキリスト信仰に関わっては
、当時からさほど進展したように思えないのは残念極まりない。日本がほどなくキリスト教国になるのでは、と言われた明治時代に学ぶことは意外にも多い。
3月の聖書のことば
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)
明治政府が最初に作った教科書(「小学読本」)は、何とキリスト教の神観に立つものでした。◆「天津神は、月、日、地球を造り、のち、人、鳥、獣、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり。」「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」◆明治七年発行「小学読本」にはこう記されています。「神は常に、我々を守るゆえに、吾は、独にて、暗夜に、歩行するをも、恐るることなし。又、眠りたるときにも、神の、守りあるゆえに、暗き所も、恐るることなし。神は、暗き所も、明に、見るものゆえ、人の知らざる所と、思いて仮にも、悪しきことを、なせば、忽ち罰を、蒙ふるなり、人の知らざることをも、神は、能く知るゆえに、善きものには、幸を、与へ、悪しきものには、禍を与ふる
なり」◆その後、政府は天皇を中心とした国家神道を推し進めるため聖書を意図的に排除し、進化論を教育に取り入れ、軍国主義一色になっていきました。やがて日本は自ら始めた太平洋戦争により、国家滅亡の淵に立たされ無条件降伏するに至ります。◆この絶望の時、またしても、日本を救うことになったのは聖書でした。マッカーサーは、アメリカ本国政府の意向と反することを知りながら、クリスチャンの副官フェラーズ准将の進言を全面的に取り入れ、日本は世界史にも類のない平和の道を進むことになるのです。
2月の聖書のことば
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。」 (マタイの福音書7章13,14節)
千利休(1522~1591)の七高弟のうち5人が高山右近をはじめとするキリシタン大名であり、茶道にはキリストの教えが色濃く反映している、と言われている。
◆1) 茶室に至る露地は、飛び石が置かれた狭い道であり、そこを灯籠が照らす。このような庭を創案したのはキリシタン大名、古田織部である。
◆2) 次に蹲踞(つくばい)という手水鉢があり、そこで膝を折って蹲踞(そんきょ)する。これはしもべの姿勢である。
◆3) 茶室に入るには、体を折るようにして、躙り口(にじりぐち)から入らなければならない。帯刀し、華美な服装をしていたのでは入れない。茶室に入るには自分を飾るものは一切置いていかなければならない。
◆4) 床の掛け軸には主人の言葉が書かれ、竹筒には野の花が活けられている。「野の花を見よ」とのキリストのことばを思い出さないわけにはいかない。
◆5) そこで、客は主人と対面し、静けさの中に心豊かな時を過ごすのである。
◆とかく日本人は集団で行動することを好む。そして世間を恐れる。神様 よりも人様を重んじる文化が特徴と言ってもよい。
◆しかし、利休は、一人ひとりが神の前にへりくだり、暗い道も神のみことば(聖書)という光を頼りに歩み、 水にも例えられる神のことばによって手のわざを清め、しもべとしてキリストと向き合い、導きと教えをいただくことを、示そうとしたのかもしれない。
◆躙り口 が示す「狭い門」…聖書は、一人ひとりがキリストと向き合い、キリストを主とする歩みの死活的重要性を訴えてやまない。
1月の聖書のことば
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカの福音書9章23、24節)
ウェストミンスター寺院の地下に、次のような碑文が刻まれた英国教会主教の墓があるそうである。 (出典不明)◆何の束縛もない若かりし頃、 想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。◆ところが、 年を重ねて賢くなり、 世界は変わらないことに気づいた。◆そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。 だが国も変わらなかった。◆老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。◆自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。◆だが、悲しいことに、これすらままならなかった。◆今、私は死の床についている。◆なんと、今になって初めてわかったのだ。変えなければいけないのは、 自分自身だったのだと。◆自分が変われば、家族も変わっただろう。◆そして家族に励まされ支えられながら、国をよくすることもできたろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ。
2014年「今月の聖書のことば」記録
12月の聖書のことば
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」 (ルカの福音書23章34節)
1941年12月8日、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄は一躍日本の英雄となったものの、ほどなく戦況は一転して悪化の一途を辿り、ついに日本は敗戦を迎えた。しかし東京裁判に反発した淵田は、米国も残虐行為を犯したではないか、と国際法廷で提訴しようと決意し、証拠を集めるため捕虜になった日本人に面接した。ところがそこで聞いたのは残虐行為ではなく、両親がフィリピンで殺されたというのに自分たちに親切にしてくれたクリスチャンの女性の話であった。新約聖書をくれたこと、そして両親は、処刑される前に、内容はわからないが何かお祈りをした、というのである。その後、淵田も新約聖書を手に入れ、マタイ、マルコと読み進み、ついにルカの福音書23章34節に至った時、電撃のようなショックを受けた。その瞬間、直感的に、あの年老いた宣教師夫妻が殺される前に祈った祈りがそれであったことを悟ったのである。そして、その祈りを娘である彼女が行動に移していたことを…。
淵田の心からはいつしか敵意が消えていた。その代わりに自分の犯した恐るべき罪とそれに対するキリストの赦しの素晴らしさを知ったのである。
その後、淵田はかつて敵国であったアメリカ合衆国に渡り、自分がクリスチャンになったことを証しした。反響は絶大だった。父や夫が真珠湾で命を落とし敵意を持っていた人までが、淵田の口から伝えられたこのキリストのことばに感動し、涙でむせび、和解の手を差し伸べたのであった。
12月はこのキリストがお生まれになったことを覚える大切な時である。
11月の聖書のことば
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ人への手紙8章35~37節)◆「患難」「苦しみ」「迫害」等々の背後には、人格的な力が働いている。「キリストの愛から引き離すのは何か」ではなく」「だれか」と書かれているからである。サタンは常に、私たちにキリストの愛を疑わせ、キリストから引き離そうとする。「これほどの苦しみがあなたに臨むのだから、神があなたを愛しているわけはないではないか」というわけである。この手の誘惑に、私たちはいともたやすく欺かれてしまう。◆それどころか、「ほふられる羊とみなされた」と書かれている。それほどにも、クリスチャンは、当時、無力で、無抵抗な人々と思われていた。◆ところが、この弱さの極みに置かれることこそ、クリスチャンの本領発揮のチャンスなのである。起死回生とはこのことである。自分に死に、もはや頼りとする御方はキリストご自身以外におられない、という信仰に立たざるをえない絶体絶命の危機こそ、勝利への道なのである。◆それは私たちの生来の力に全くよらない。私たちを愛してくださる方がその御力を示されるのは、私たちが他のものに頼ることを一切やめて、主を仰ぐときなのである。
10月の聖書のことば
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1章20節)◆神とは創造者であることがここにはっきり述べられている。すべてのものは偶然に、つまり無目的にできたのか、それとも計画と目的をもって造られたのか、答えはそのどちらかしかない。◆ところが、「神は存在するはずがない」という前提から出発すると、すべては偶然にできた、という結論しかなくなる。それが進化論である。◆しかし、進化はダーウィンの『種の起源』(1859年)発表以降も、それを裏付ける証拠が何一つ上がっていない。いわゆる「証拠」とされているものは、捏造であったり学会で公式に否定されたものばかりなのである。◆同時代のファーブル昆虫記、メンデルの法則もダーウィンを否定する。昆虫の生態を見れば見るほど、ファーブルは造物主の知恵を認めないわけにはいかなかった。修道院の庭でエンドウ豆の観察からわかったことは、何百世代が経っても、エンドウ豆はエンドウ豆のままで、決して、ぶどうやトマトにはならない、ということであった。◆「進化が本当であってほしい」という人間の願いが、データの偽造、捏造を際限なく起こしている、というのが進化論の現実と言ってよい。◆結局、「神はいない」という前提に誤りがあったのである。全知全能の神がおられるのだとすれば、すべてが説明できる。そして私たちは偶然の産物などではなく、神の傑作である。造られたものなのに、造った御方を否定する…これが《罪》の本質なのである。
9月の聖書のことば
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」(哀歌3:21~25)◆哀歌は、母国ユダの都エルサレムが強国バビロンに蹂躙され、亡国に至る様子を預言者エレミヤがつぶさに記した嘆きの書である。◆エルサレムには主を礼拝するための神殿が建ってはいたが、異教の神々もいたるところに祀られていた。この宗教的な浮気心が国の滅亡の原因そのものである、と預言者たちは弾劾した。◆「滅びうせる」というのは名訳で、ヘブル語では「タマーム」。「一つ残らず」というニュアンスがある。ユダは滅びた。しかし完全に、ではない。残された人々がいた。その人々が後に国を再興することになる。◆私たちも多くのものを失ったかもしれない。健康や頼みとしていた人間関係、あるいは経済的損失など・・・。しかし残されているものに目を留めよ、と聖書は言う。希望はそんなところからも芽生える。失われたのは、結局、私たちが自分の安心のために、八方美人的に、あちらこちらに「保険」をかけたものばかりである。バビロンにも莫大な貢物をしてきたのに、かえってそれがバビロンの欲望をあおり、侵攻を招いた。◆そんな浮気な私たちが、神のみに頼るように、と不要なものを神は取り去られたのだ、というのがこの一節の主旨である。◆厳しいことばである。しかし真実なことばである。
8月の聖書のことば
「それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。(創世記41:1~4)◆この夢の解釈は、呪法師や学者もお手上げで、パロの不安は募るばかりであった。しかし、無実の罪で投獄されていたヨセフがついに呼び出され、その意味を見事に解き明かした。7頭の肥えた牛は7年の大豊作を、7頭のやせ細った牛は7年の大凶作を示
す、という。◆「神の霊の宿る人」ヨセフを宰相に据えたおかげで、エジプトは滅亡を免れ、寄留したイスラエルまでもが繁栄した。◆この夢は、私たちにとっても人ごとではない。繁栄を食いつくす痩せた牛のごとく、国の借金は1000兆円を超え、原発はメルトダウンし、今や、日本の平和すらも、憲法解釈の変更で土台が揺らいでいる。異常気象は日常的になり、映画で見るような犯罪が現実となっている。◆私たち日本の希望はどこにあるのか。それは、ヨセフを暗い牢獄の中から引き出し、宰相の座につけたときに状況が一変したように、日本が明治初期、また戦後のように、もう一度聖書という土台に立ち、イエス・キリストを主とするところにあるのではないだろうか。
7月の聖書のことば
「実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」(創世記40:14~15)◆イスラエルの父祖ヤコブから偏愛を受けたヨセフは兄たちから妬まれ、遠くエジプトまで奴隷として売り飛ばされてしまう。◆しかし、ヨセフは侍従長ポティファル邸で破格の信用を得、やっと新しい生活に希望が見えた直後、ポティファルの妻から露骨な誘惑を受ける。見事にそれを退けたものの、プライドをいたく傷つけられた彼女は、「ヨセフに襲われた」と虚偽の訴えをし、激怒した夫の手で監獄に放り込まれてしまう。◆表記の聖句は、同じく投獄されたエジプトの高官に自らのことを語る場面であるが、「さらわれてきた」と、自らの身の上を語り、兄たちの裏切りのせいにしていない点、またポティファルの妻を憎んでもいない点に驚かされる。◆次章では奴隷の身分からエジプトの宰相となる大どんでん返しが待っているが、絶大な権力を手にしてもヨセフは一切復讐していない。◆「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12:14)とパウロは語るが、これはまさに、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)というイエスの教えそのものである。◆主イエスもまた、私たちの悪に対して、それにふさわしい罰をもって臨むのではなく、恵みと赦しをもって報いてくださったことを忘れてはならない。
6月の聖書のことば
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、・・・」(マタイ 1:1~3)◆ついつい読み飛ばしてしまいそうなマタイの福音書冒頭にあるメシヤの系図の書き出しである。◆ここでいきなり、ヤコブの四男ユダ(『賛美』の意)が登場する。「ユダ族の獅子」(黙示録5:5)がキリストの称号である、というほどユダには輝かしいイメージがある。◆ところが、ここに「タマル」という名前をあえてマタイは付記する。タマルとは、創世記38章を見ると、何と、ヤコブの長男、続いて次男の嫁となった女性である。二人が早逝し、このままでは子孫を残せないと危機感を覚えたタマルは遊女を装い、ユダを誘惑してその子を身ごもった。この近親相姦から生まれたのがパレスとザラであり、パレスはメシヤの先祖の一人になったのだ。◆醜聞とし か言いようのないこの出来事を、マタイは隠そうとしない。それどころか、系図に女性名は書かない、という通例を破り、「ラハブ」(遊女)、「ルツ」(モアブ人)、「バテシェバ」(人妻)の名をも記している。◆この系図からキリストは生まれた。そこにこそ、キリストが「インマヌエル」(マタイ1:23「神は私たちとともにおられる」と呼ばれる理由がある。◆先月は、「預言」や「奇蹟」を行いながら、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(マタイ7:23)とキリストから宣言された人々のことを考えた。結局、自分が絶望的で破産状態にある罪人だ、ということに気づかなかったため、キリストを主、また救い主として仰がなかったための悲劇だっ たのである。
5月の聖書のことば
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ 7:21~23)◆自分はクリスチャンである、と自他ともに認めながら、終わりの裁きの日に、実はそうではなかった、とキリストから宣言される、という以上の悲劇はない。その生涯は、クリスチャンとは似て非なるものだった、とするならその人生の空白はもう埋めようがない。◆この直前には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」(13~14節)と書かれている。私たちは、果たして狭い門から入った者なのだろうか。◆多くの人は、「狭い門」を、修道院生活に代表される禁欲の生活ととる。しかし、聖書が教えているのはそんなことではなさそうだ。〈預言〉や〈悪霊払い〉〈奇蹟〉のような著しいしるしすら、救いの保証にはならない、というのもショッキングである。◆上記の聖句にあるのは、キリストを「主」と呼びながら、本当には悔い改めておらず、回心していなかった人の悲劇である。◆クリスチャンと言われる人の多くが数年で教会を去り、世に戻っていく、と聞くと胸が痛む。その人たちはキリストを主、また救い主として本当に受け入れていたのだろうか。この点においては、いささかの妥協も曖昧さもあってはならない、と痛切に思う。
4月の聖書のことば
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(ⅠコリントⅠコリント15:19~20◆ニューメキシコ、テキサス、メキシコから中米の高地に自生する植物に、テマリカタヒバ、またの名を「復活草」というシダ植物があります。乾季が訪れると、茶色い枯れ草の塊のようになりますが、雨季になると葉を広げ劇的に鮮やかな緑色に変わるのです。それはイエス・キリストの復活をほうふつとさせずにはおきません。◆キリストがカルバリの十字架でむごたらしい死を迎えたとき、弟子たちですら、キリストがやがて復活することを全く信じていませんでした。◆しかし、それから三日後、葬られた墓から遺体が消えていました。後には遺体を石膏のように固く包んでいた布が、そのままの形に残っていただけなのです。そして、復活のキリストに会った、会話をした、その足に抱きついた、という証言が次々となされ、臆病だった弟子たちが、死も刑罰も恐れず、堂々と復活を証言していった、と聖書は記しています。しかも、それは使徒たちの中心的メッセージであったのです。◆復活が事実である、とすると、どういうことになるのでしょうか。私たちの罪の代価としてのキリストの死を、神が認証された、ということにほかなりません。古今東西、復活して天に上った方はキリスト以外には一人もいません。神は、キリストによってのみ、永遠のいのちが得られることを、これ以上ないほど簡単明瞭に、キリストの復活によって示して下さったのです。
3月の聖書のことば
「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。・・・キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:27~31)◆ソチオリンピックの熱戦が大きな感動を呼んでいます。また、日本がいくつメダルを取れるか、は他の何にもまして大きな関心事となっています。◆面白いと思うのは、個人やチームの勝利が、選手だけにとどまらず、選手を送り出した国の栄誉として称えられる、ということです。私たち自身は戦っていないのに、日本人選手が勝利すれば、それはまるで私たち全体が勝利したかのように扱われ、皆が歓喜します。◆それと同様に、キリストは私たちすべての代表者であり、永遠のチャンピオンです。オリンピックに出場してください、と私たちに要請が来ることはなかったように、私たちは、霊的世界においても、およそ勝利とは無縁の者でした。ところが、そんな無力な私たちを代表して、キリストは「神の知恵」「義と聖めと贖い」とになってくださったのです。◆私たち自身には罪に勝つ力も、サタンに勝利する力もありません。それどころか、何一つ神のお心にかなうことができない、という始末です。しかし、そんな私たちを愛して、主が私たちに代わって勝利を得、その果実をすべて私たちに与えてくださいました。◆主が勝ち得た勝利はそのまま私たちの勝利である…これこそは金メダル以上に尊い福音です。
2月の聖書のことば
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)◆1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校(現在の東京大学)で一人のクリスチャン教師のとった行動が日本を揺るがす大事件になりました。◆その名は内村鑑三。前年に発布された教育勅語の奉読式で、天皇の署名に対し、最敬礼を怠ったのは不遜極まる行為である、またその背景にあるキリスト教は国体に反することが明らかになった、と非難の嵐が巻き起こったのです。◆鑑三は悪性のインフルエンザで意識不明に陥ったばかりか退職に追い込まれ、妻加寿子は献身的に看病し、身を挺して夫への批判の嵐を受けましたが、心労で風邪をこじらせ、わずか23歳で天へと召されました。代償はあまりにも大きいものでした。◆衝突は避けることもできました。事実、同僚のクリスチャン教師たちは、「体調不良」を理由に欠席しています。しかし、『クロムウェル伝』を読んで信仰に燃えていた鑑三は、結果がどうあれ、まっすぐに突き進む以外の道を選ぶことができなかった、と後に述懐しています。◆その後、どうなったのでしょうか。「不敬事件」のおかげで内村鑑三の名は全国にとどろき、多くの人が聖書の教えに耳を傾け、その門下から優れた人材が次々と輩出され、混迷した日本を導く大きな力となったのです。◆結果はすぐには表れませんでした。しかし、真剣に神により頼むなら、神の約束は着実に果たされていくことを、歴史は私たちに教えてくれています。
1月の聖書のことば
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
殺人、脱獄、盗みをし、二十歳そこそこにして牢名主として悪党どもを取り仕切り、もはや更生の見込みなし、として、本来は死刑になるべきところを、若年のため無期懲役刑となっていた好地由太郎は、差し入れの聖書(今よりはるかに難解な文語訳)を読むために、看守長から文字を習い、遂に読破。救い主の愛に感激して一生を主に捧げます。◆その後、捨て身の囚人看護が認められ、模範囚として減刑、一時は看守の代行を務めるほどに破格の信頼を得、やがて恩赦。世の中に戻ってからは、伝道者として、罪の生活にどっぷりつかった人々の中に飛び込み、光と希望の生涯へと導くのです。その自伝『恩寵の生涯』はまさに必読の書です。◆イギリスでは、奴隷商人ジョン・ニュートンが、嵐に遭遇し、
九死に一生を得たことがきっかけで教会に通い、信仰を持ち、苦学の末に牧師となり、聖書が難しくて読めない、という人々のために、次から次へと新しい賛美歌を作り、それによって福音を理解した人々が大勢誕生する、というドラマが起こりました。その賛美歌のひとつが、傑作Amazing Grace(驚くべき恵み)です。ウィリアム・ウィルバーフォースが、国会議員となり、イギリスの奴隷制度廃止を実現にこぎつけたのも、もとはといえば、ニュートンの影響でした。◆「だれでも(無制限)キリストのうちにあるなら(限定)」…この組み合わせこそが歴史を変えるほどの結果をもたらしたのです。
2013年「今月の聖書のことば」記録
12月の聖書のことば
「「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)◆紀元前700年頃の、有名なメシヤ預言です。イザヤははっきりと、「力ある神」が「みどりご」、すなわち赤ちゃんとして生まれる、と記しています。しかも、その赤ちゃんは「永遠の父」、すなわち私たちの保護者である、というのです。ことばの意味は正反対…。人間の想像をはるかに超えたことが、クリスマスの時に起きたのです。◆ナザレの大工、ヨセフの長男として生まれたイエスは、幼い頃より両親を手伝い、大勢の弟、妹たちの面倒を見たに違いありません。母マリヤ、弟のヤコブとユダは
それぞれ初代教会の模範的信者となっていることからもそれはわかります。◆「主権はその肩に」…現在も、世界基準の暦はキリストの生誕を境として、B.C.(キリスト以前)、A.D.(主の年)に分割されています。◆「不思議な助言者」…民衆も、キリストの敵ですらも、その教えに驚嘆し、その権威に圧倒され、反論ができませんでした。◆「力ある神」…神にしか成し得ない奇蹟をこともなげに行われたことはその証左です。◆「平和の君」…神との平和、すなわち和解は、このイエスによってもたらされました。同じイザヤ書の53章は、その代価としての身代わりの死について、イエスに先立つこと数百年前に、微細な点に至るまで正確に預言しています。◆ナザレのイエスこそ、聖書が三百回以上にわたって預
言していたメシヤ(キリスト)であることには、一点の疑いもないのです。
11月の聖書のことば
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネの福音書6:27)◆アメリカで活躍する若い伝道者のメッセージ動画を見ました。ぎっしり入ったスタジアムで大勢の聴衆が彼の一挙手一投足を見守っています。◆最初のメッセージでは、長い、長いロープがステージに持ちだされました。未使用と思われるそのロープの先端の数センチには赤いテープが巻かれていますが、残りはすべて真っ白です。一体もう一方の先端部分がどこにあるのか、どれほど引っ張っても見えません。◆会場から笑いがもれた後、彼はおもむろに言いました。「このロープはここにいる一人ひとりの人生を表しています。赤いテー
プが巻かれた先端部分は、この世の短い人生を表しています。そして残りの長い、長い部分は、死んだ後の永遠の長さを表しています」。◆会場はシーンと静まり返りました。◆「私たちはみな、この数センチの長さの人生を、楽しく暮らそう、とか儲けよう、とか、無事に過ごそう、と考えながら生きています。でも、もっと大切なのは、その後に来る永遠の時間をどう過ごすか、ということではないでしょうか。しかも、今、この赤いところをどう生きるかによって、永遠の過ごし方が決まるのです。」◆厳粛な静けさが訪れました。だれもがうすうす感じていたことを、彼がはっきり言葉にしたからです。◆それでは今を私たちはどう生きるべきなのでしょうか。聖書が言うとおり、永遠を視野に生きることで
す。「聖書は来世を背景に読むべし」と内村鑑三が言うとおりなのです。
10月の聖書のことば
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテへの手紙第二 3章16節)◆9月8日、ブエノス・アイレスで開かれたIOC総会で、2020年のオリンピックは東京で開催されることが決定しました。その大きな後押しとなったのは、日本の首相が福島原発の汚染水漏れについて「状況は完全に制御されている」、と明快に断定し、懸念を払拭した点にあった、と言われています。大多数の日本人、特に福島の人々は、この首相の発言が、あまりに現実離れしている、と戸惑ったのではないでしょうか。◆しかし、使徒パウロが上記のことばを書き記した時、そこには一点の迷いも疑いもありませんでした。皇帝ネロによる斬首が目前に迫っている中で記され
たことばとは到底思えないほどです。◆ここで言う「聖書」とは旧約聖書のことです。(まだ新約聖書は完成していなかったからです。)天地創造も、アダムとエバの堕落の物語も、ノアの洪水も、紅海横断も、すべてそこに含まれています。19世紀の「自由主義神学」(聖書を合理的に解釈し、それができない部分は神話として扱う見方)の影響を受けた聖書学者は、パウロの意見にこぞって反対することでしょう。◆しかし、ここにもっと大きな問題があるのです。イエス・キリストも「天地が滅びうせない限り、律法(=旧約聖書全体)の中の一点一画でも決してすたれることはありません」と言っておられる点です。イエスも間違っていたのでしょうか。であるとするなら、そのように無知な人物を神の子
、救い主と信じることほど愚かしいことはありません。◆しかし、近年の研究のめざましい進歩により、近代批評学の主張は崩れ、聖書が真実であることが、考古学から次々と明らかになってきています。けれども、たとえそのような傍証がなかった、としても、私たちが虚心に聖書を読んでいくなら、そこに「真理のみが持つ響き(the ring of truth」(J・B・フィリップス=聖書翻訳者)を感じないではいられないことでしょう。
9月の聖書のことば
「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」(ルカの福音書10章42節)◆優先順位を正しく決める、ということほど難しいことはありません。もしそれができたなら、多くの難問が自然に解決していくことでしょう。◆時間をいかに効率的に使うか、というセミナーで、講師がガラス製の広口のかめにこぶし大の石を十個ほど入れました。誰の目にも、もうこれ以上は入りそうにありません。◆ところが講師は次に、砂利を注ぎ込みました。かめを揺すると、隙間が砂利で埋まっていきます。しかし、もうこれ以上は入りそうにもありません。◆すると講師は砂を注ぎ入れました。かめをテーブルの上
に軽く振り下ろすと、隙間が砂で埋まりました。◆「これで一杯になりましたか」と講師が尋ねると「いいえ!」と受講生たちから大きな返答。「素晴らしい答えですね」と言って、次に講師は水差しで、かめのふちまで水を注いだのでした。◆そしてこう尋ねました。「今の実演から学べることは何でしょう。」熱心な受講生が答えました。「どれほどスケジュールが一杯であっても、もし真剣に工夫すれば、まだもう少し詰め込める、ということです!」◆講師は言いました。「いいえ、そうではありません。それが要点ではありません。要点はこれです。最初に大きな石を入れておかないと、後で入れようと思ってももう入れることはできない・・・。」◆実に、イエスの言葉(聖書)に耳を傾けることこそ、
大きな石を入れることなのです。そうでないと、瑣末なことで時間のほとんどがなくなってしまいます。これは、今も昔も変わらない真理なのです。
8月の聖書のことば
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(ルカの福音書21:33)
参議院選挙が行われました。多くの人が将来に希望を託して一票を投じたことでしょう。◆しかし、8年ほど前は、時の首相がバラ色の将来を声高に約束したものの、選挙後、かつてないほどの富の格差が生まれ、それが固定化されるという皮肉な結果となりました。◆4年前は、「政権交代」に多くの国民が期待をかけましたが、国内的にも国際的にも迷走を続け、国民の信用をすっかりなくしてしまいました。そして、今回は「アベノミクス」です。今度は期待して大丈夫なのでしょうか。また仮に経済が好転したとしても、平和憲法に手を加えられる心配はないのでしょうか。◆キリストが上記のことばを述べられたのは、イスラエル(正確に言えばユダヤ)が滅亡するおよそ40年前のことです。社会は一見
平和に見えましたが、今日と同じく、その「平和」は微妙なバランスの上に保たれていただけでした。そして、ついにローマ総督の横暴なやり方に反発した群集とローマ軍との小競り合いが全面戦争にまで進展し、3年半後の西暦70年、エルサレムは滅亡し、ユダヤ民族は祖国を失ったのでした。まさに天地が滅びるような空前絶後の出来事が起きたのです。◆しかし、不思議なことに、キリストのことばはその後世界中に広まり、歴史に深い影響を与えました。キリストのことば、また聖書がなければ、今日、私たちが恩恵を受けている法律、医療、教育、福祉、そして芸術、科学までも、その多くはなかった、と言っても過言ではありません。◆どれほど堅固に見えるものも、いつかは滅びてしまいます。しか
し、決して滅びないものがキリストに、また聖書にある、というのは何という希望、慰め、また勇気の源泉であることでしょうか。
7月の聖書のことば
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」(黙示録13章2節)◆終戦(正確には「敗戦」)からまもなく68年を迎えます。戦争の記憶がどんどん薄れる中、日本は再び、「国益を守るためには戦いも辞せず」という国家主義が人々の支持を集めるようになりました。周辺の国々も、小さな島々を巡って、国家を挙げて争う姿勢を示し、アジアの平和はにわかに不安定になってきています。◆黙示録13章は、そのような「国家」の本質を端的に「獣」と表現しています。もちろん、直接的にはローマ帝国を指していることは間違いありませんが、国家が、国民を守るどころか、国民を恐怖で思いのままに操り、命を要求する「獣」となる場合があることも、聖書は警告しているのです。◆日本は、何と15年間も無謀な戦争を続け、真珠湾での「勝利」からわずか半年後のミッドウェーで敗戦が決定的になったにもかかわらず、その後三年以上も戦争を続け、310万人という尊い命を失わせ、国土を焦土と化し、広島、長崎に原爆が落とされても、なお戦争を続行しようとしたことを忘れてはなりません。◆天皇制という国のあり方(国体)護持のために支払った代価はあまりにも大きいものでしたが、今、再び、そのような姿に戻そう、という動きが顕著になりつつあります。「獣」の背後には「竜」、すなわち悪魔がいる、とヨハネ(黙示録の著者)は言います。国が「羊のなりをした貪欲な狼」(マタイ7:15)になってはいないか、私たちはよく目を凝らしていなければなりません。
6月の聖書のことば
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)◆紀元前6世紀、エルサレムはバビロン軍に囲まれ、絶体絶命の状態でした。しかし、以前、アッシリヤの大軍が一夜にして滅びた経験を、「神風」のように思っていたのか、今回も、バビロンは攻めてはこない、バビロンは敗れる、と王や民の自尊心をくすぐる偽預言者が大勢いました。◆しかし、神が遣わされた真の預言者エレミヤは、「バビロンに降伏しなさい。そうすれば、神はあなた方を守る」と繰り返し語ったものですから、憎まれ、迫害され、罵詈雑言を浴びせられました。◆その時、エレミヤが語った神のことばの一部がこれです。◆第一に、誰の目から見ても、状況が好転するとは思えない時に語られました。◆しかし、第二に、神には平安と将来と希望を与える計画があります。◆第三に、私たちは、たとえ気が進まないことであっても、それが神の御計画であるなら、それを受け入れるべきことです。◆「計画」というヘブライ語には、もともと、「織物」という意味があります。織物のデザインは仕上がるまで他の人にはわかりません。しかし、製作者にはわかっています。◆神は、従う者に「平安」(原語では健康、繁栄、長寿、満たしも意味する)と将来(結末、子孫も意味する)、そして希望(文字通りには、私たちがつかまる「ひも」を意味する)を与えてくださいます。◆私たちも神のみことばを信じ、その「ひも」にしっかりつかまろうではありませんか。
5月の聖書のことば
「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイの福音書4:17)◆「悔い改めなさい」という原語を、東北の医師、山浦玄嗣先生は「さあ、心をスッパリ切り替えろ」と見事に訳されました。ある英語の訳もなかなか名訳です。「神に目を向け、考え方と行動の仕方を改めよ」(God’s Word Translation)。それは、天の御国に入るための絶対条件です。◆悔い改めの反対は、今の自分のままでいい、とする、現代人の好きな考え方ではないでしょうか。「♪信じたこの道を 私は行くだけ/すべては心の決めたままに」。フランク・シナトラの歌声が聞こえてきそうです。しかしそれでは天に入ることはできません。◆英国のウェストミンスター寺院に、次のような碑文が刻まれた墓があるそうです。◆「何の束縛もない若かりし頃、/ 想像は果てしなく広がり、/ 私は世界を変えることを夢見ていた。◆ ところが、/ 年を重ねて賢くなり、/ 世界は変わらないことに気づいた。◆そこで、目指すものをもう少し近いものにして、/ 自分の国から始めることにした。/だが国も変わらなかった。◆老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。/ 自分の国もだめなら、少なくとも、 最も近くにいる家族を変えることにした。/ だが、悲しいことに、これすらままならなかった。◆ 今、私は死の床についている。 /なんと、今になって初めてわかったのだ。/ 変えなければいけないのは、 自分自身だったのだと。◆自分が変われば、家族も変わっただろう。/そして家族に励まされ支えられながら、/国をよくすることもできたろうし、/やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ。」◆自分を変えるのは誰にとっても容易なことではありません。しかし、神に向かって悔い改めるなら、私たちは変えていただけるのです。少しずつ、しかし、確かに。
4月の聖書のことば
「シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」(ヨハネ20:6~8)◆キリストを葬った墓から、遺体が忽然と消えていました。ローマ兵が四六時中監視し、墓にはローマ皇帝の封印がされていたにもかかわらず…。◆多くの人は、キリストの復活を「作り話」だと考えています。古今東西、死からよみがえった人は一人もいないからです。しかし、だからといって、キリストがよみがえらなかった、という証拠にはなりません。もし聖書が語るように、神が人となったのがキリストであるなら、よみがえらない方がおかしいからです。◆さて、墓には不思議な状況証拠が残されていました。遺体を包んであった布です。布といっても、単にかぶせたものではなく、遺体に何重にも巻きつけられたものです。何か変だとは思いませんか。もし、遺体を盗むなら、なぜわざわざ布をほどく必要があったのでしょう。巻きつけられたまま運ぶ方がよほど利口です。しかも、遺体には30キロにおよぶ没薬がたっぷり塗られていた(ヨハネ19:39)のですから、布をほどくこと自体がほとんど不可能です。◆布はまるで、からだが布を通り抜けたように、そのままの形状をとどめていました。◆布が残されていた――これはキリストが葬られた墓がそこに間違いないことを示しています。そして布の中にはあるはずの遺体がなかった――これはキリストがよみがえったことが確かであることを示しています。◆キリストはこの後に弟子たちに姿を現しておられますが、復活を疑う人は、まず、墓の中に残された布の説明をしなければなりません。死体を包んでいた布にすぎないとはいえ、その意味することには千金の重みがあるからです。
3月の聖書のことば
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:19,20)◆春分の日が近づきました。この前後一週間を「お彼岸」といい、「此(し)岸(がん)」(この世)と対比して、あの世(極楽)に成仏できるように死者の冥福を祈るのにふさわしい時期とされてきました。それは、この日、真西(「西方浄土」がある方向)に沈む太陽を拝むと、浄土の東門を拝むことになり、十万億土を隔てたところにある極楽浄土が最も近くなると考えられたからです。◆しかし、極楽は本当にあるのか、誰にも確たることは言えません。富山県の名門のお寺(浄土真宗)に跡継ぎとして生まれた亀谷凌(かめがいりょう)雲(うん)( 1888~1973)は、阿弥陀仏や極楽の実在がわからず、煩悶します。それがどうしても観念以上のものにはならないからです。ところが、やがて聖書を学び、ついに神が私たちと同じ肉体をとって生まれた御方がイエス・キリストである、と聖書が教えていることを知ります。◆このキリストが十字架の上で私たちの罪の罰を代わりに受けてくださったばかりか、死んでよみがえったからこそ、キリストを信じる者は救われることを得心した凌雲は、僧侶をやめて牧師となり、世を去るまで、郷里の富山を中心に、聖書のメッセージを語り続けたのでした。◆天国に導くことができるのは天国から来た人のみです。死後のいのちを確証できるのは、死んでよみがえった人以外にはいません。実に、キリストだけがその条件を満たしている唯一の御方なのです。
2月の聖書のことば
「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5章15節)◆NHK大河ドラマ『八重の桜』が始まりました。もちろん主人公は、会津戦争で新政府軍と戦った山本八重、後の新島八重です。◆兄、覚馬からあてがわれた新式スペンサー銃から精確に放たれた銃弾は、敵に次々と命中しましたが、結局は圧倒的な軍事力の前になすすべなく会津藩は降伏。戦後は埋葬を許されない死体の山、という惨状を呈しました。◆しかし、鳥羽伏見の戦いで九死に一生を得ていた兄、覚馬は、京都でM・L・ゴードンを通して聖書に出会います。聖書は真理を伝えている、と直観した覚馬は、今度は妹の八重にスペンサー銃ではなく、聖書と英語の大切さを説きました。尊敬する兄の勧めにしたがい、八重が、マタイ伝を学ぶために出かけた1875年(明治8年)5月のある日、偶然にもゴードン邸に来訪していた新島襄が八重に強く惹かれ、やがて信仰をもった八重と結婚することになります。◆これだけでも劇的な出会いですが、話はそこで終わりません。新島からキリスト教主義の大学を設立する、というビジョンを聞いた覚馬は、購入した広大な薩摩藩邸跡(6500坪。かつて自分が幽閉されていた所)の提供を申し出、そこに同志社大学が建つことになったのです。◆キリストが新しい主(主君)となった時、山本覚馬も八重も、人を殺傷する銃弾によってではなく、新島襄とともに、人を生かす聖書とそれに基づく教育によって日本を変えていく道を選んだのです。
1月の聖書のことば
「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」(出エジプト記12章2節)◆「おめでとうございます」とは、本来、お互いに対して言うものではなく、旧年の物忌みが明けて、新たな年を迎えることのできた年神を讃えることばだったそうです。また、「お年玉」も、元来は年神から与えられる魂(今年精一杯生きる活力)のことです。その意味では、年神様も絶対的な存在ではないことがわかります。日本の八百万(やおよろず)の神々はみな、どことなく人間的で、決して絶対的な存在ではありません。◆それに対し、聖書の神は、創造者であり、不変にして永遠の存在です。その神が時を定めたのだ、と聖書は言います。暦の土台である星々、また太陽は神が時のしるしのためにお造りになったものなのです(創世記1:14)。◆その神が、1年の始めとされたのは太陽暦では3~4月に当たるニサンの月でした。一体、ここで何が起きたのでしょうか。そうです。過越しの祭です。身に何の欠陥もない小羊を殺し、その血を家の門柱と鴨居に塗布したイスラエルの家々は神の裁きを免れ、エジプトでの奴隷状態から解放されたのでした。◆さて、大変興味深いことに、元日に飲めば、一年の邪気を払い、無病息災、不老長寿を招くと言われる祝い酒があります。屠蘇酒です。屠蘇とは、「屠」(ほふる)と「蘇」(よみがえる)という二つの漢字から成り立っています。(「蘇」は、イエスの中国音訳「耶蘇」の「蘇」。)◆イエスが十字架で屠られ、三日目に蘇られたことを信仰によって受け入れる時、その人に新しい人生の暦が始まるのです。